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「生きる力ある」人間を育てる、ということ。 [雑文]

@先日、東京のある私立高校の教師が、修学旅行先で騒いだり、持ち込みを禁止されているケータイやゲームを持ち込んでいた生徒数人に対して、衆人環視の前で正座させ、マージャンパイ入りの味噌汁を無理やり飲ませたり、正座していてしびれている生徒の足を爪楊枝でつついたり、生徒同士で非難させあったり、さらにはこれも生徒同士で髪の毛を切らせ、その様子をケータイで撮ったりしていた、という不祥事をやらかした。“教育的指導”という名のリンチを行ったのである。

@いったいなぜ、教師たちは、修学旅行でワイワイはしゃいだり、ケータイを持ち込んだりしただけの生徒を、ここまでいびったりするのだろう。このような行過ぎた体罰行為が、生徒のその後の心境をどのように変化させていくのか、おそらくは当の教師たちは思いをはせる余裕すらなかったに違いない。

@今こうして考えられることは、先生も生徒も、精神的に低いレヴェルに置かれていたのかもしれない、ということだ。精神のレヴェルが低い、ということは、自分自身に自信が持てない人生を送っているのだろう。

@自己に自信のある人間は、たいてい、自分自身を肯んじて(=肯定して)生きていることが多いと思う。反対に自分を否定している人間は、自分に自信がもてていないようである。

@そして今の日本は、どちらかというと前者よりも後者のほうが多い感じを受ける。先進国の中で、自殺がのべつに多いといわれるのも、何かあると「私なんてどうせだめ人間」と思い込む、後ろ向きな心性を引きずっている人間が多いからだろう。

@そんな心性の人間が増えてきている、最大の原因は、やはり戦後の教育システムの失敗、そして破綻にあるといえそうだ。

@子供の自己肯定力育みつつ、人生の苦悩や社会の荒波を嬉々として乗り越える人間力を培うことをせず、単なる知識・学力・学歴偏重中心の「“お勉強”&“学歴”至上主義」のようなものの教え方が、子供の自己肯定力をそいでしまって、自分に自信のない、自分はどうせだめな奴、と思い込み、極端は場合、犯罪や自殺に走る人間を大量生産していることに、今の教育界は何処まで本気で気づいているのだろうか。

@かつて、ゆとり教育というのがあったが、学生たちの学力低下を招いたとして元の「学力・知識偏重中心」の教育システムに戻されたことは記憶に新しい。何が間違っていたのか。教育現場における教師たちが「ゆとり」の本当の意味を履き違えていたのではなかったか。結果、学生たちは学力低下ばかりか、人間力の低下まで招いてしまい、自分に自信のない、自己を否定して生きる人間になってしまったのだ。

@本当のゆとり教育とは、詰め込み偏重を避けるとともに、学力とともに人間として生きる力を養いはぐくむ教育のはずではなかったのか。

@このようにして既成の教育システムが失敗し、崩壊した今、自分を肯定して人生を生き、社会で直面するあらゆる困難や苦悩を乗り越えていけるだけの「生きる力ある」人間を育てられる、新しい教育システムの構築が叫ばれている。

@子供の個々の人間性を尊重し、「おまえはだめだ」と決め付けず、失敗をも人生の成功の源を転じる精神力、そして何があっても最後まで希望を失わない心性を、子供の中にはぐくんでいける教育システムを、親や教師自身がそれぞれ考えて、作り上げていくしかあるまいと私は思う。

@また、子供に自己肯定の心性を持たせるためには、親や教師、そして地域がその子供を決して見捨てないようにすることも大切だといわれる。子供の自己肯定感を失わせる最大の原因は、親や教師、地域が「子供を見限り、無関心になる」ということなのだという。子供に無関心な地域からは、自分の精神レヴェルが低い、自己に自信のない、自分を否定しながら生きる者がたくさん出てくる。

@この島国の未来を不毛のものにしないためにも、教育界、そして社会は子供たちの自己肯定感を殺ぐようなシステムから一日も早く脱却し、人間力に満ちた力ある人間を育てられるシステムを確立しなくてはならない。
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