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生命哲学の根幹にかかわる難問。 [雑学小論文]

@七夕の日の翌日、明治大学駿河台キャンパス・アカデミーコモンで行われた、ある特別講義を聴きに行った。タイトルは「自由意志をめぐって」というものだったかと思う。


@自分達人間は、普段何気に「自由に」物事を考え、行動していると思っている。けれども、それは本当に「自由」なのか。

@最初にここ明大で、哲学を担当される合田教授が「生きるということは、自由の神秘を獲得することだ」と言われ、サルトルの「人間は、自由の刑に処されている」という言葉(“自由でなくなる自由がない”という反対概念を含んだ言葉である)やスピノザの「自然の内的必然性に従うことが自由である」との言葉を紹介され、人は何故そこに自由があるかのように錯覚して、何かに隷属していくのか、という命題を提起された。

@如何やらこの講義は、実に最初から唯では解き難い問題を提示しようとしている…。

@その後、茂木健一郎博士が登壇し、闊達な調子で講義をはじめた。物質的決定問題と自由意志の問題とは両立する、とか、幻想でしかないとされる自由意志と、因果的決定論とは両立するという理論や、量子力学と脳内現象などについての話、人脳内の社会的認知機能と自由意志の問題など、様々な難解な話が飛び出してきた。

@私はこういう難解な問題を闊達に、また真摯に講義される茂木博士の姿に、こういう自由意志の問題のような、我々の身近な所に穴を開けて潜んでいる、掛け値なしの難問に取り組む、本当に真剣なインテリジェンスの姿勢を見た気がした。

@当の茂木博士も、10年程度経って、自身がライフワークとしている「クオリア」や「意識の発生起源」といった問題と自由意志の問題を絡めて論ずる機会が訪れた、と言われていた。

@博士の言われるように、自由意志とは、クオリアや意識の問題と繋がっているというか、複雑に絡み合っている問題なのではないか。講義が終了して2日経った今、こうしてブログを書きつつ、そんな風な感想を持っている。

@今の日本のアカデミックの現場は、これほどに真剣に、クオリアとか自由意志といった、生命哲学の根幹に関わる難問に、本気で取り組んでいこうとする人が、あまりにも少ないのではないか。
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脳と魂をめぐる問題。 [雑学小論文]

☆脳科学の核心からずれつつある?“脳ブーム”☆


@2004~2005年以来、未だに続く“「脳」ブーム”。きょうびの日本人の中に渦巻く、人間のぼけ≒認知症への不安や脳のことについてもっと知りたい、子供を頭のよい子にしたいという願望などが、如何やらこのブームの長期化に拍車をかけているようだ。

@先日には、ついに「脳科学者」が登場するドラマまで放映が始まった。SMAP・木村拓哉の主演するその「MR.BRAIN」の予告を見て、「嗚呼…脳ブームとやらも、ついにここまで来ちまったんだなぁ」と腹の中でぼやかざるを得なかった。

@それほど、現時点でとどまることを知らぬ「脳」ブームの、今は最中なわけなのだが、もっとも難しく、しかも、脳というもののフルマイの、各方面における核心問題に迫ることには、私のこの拙い頭で推測するに、ホトンド何一つ触れていないようにしか思えないのは何故であろうか。


☆脳科学(脳)と哲学(魂)との対話☆

@先日(05/26)、明治大学駿河台キャンパスの「アカデミーコモン」と言うところで行われた、気鋭の脳科学者、茂木健一郎博士と、哲学者の明大教授・合田正人氏との対談(「脳と魂の対話」)を聞く機会をゲットし、極めて難解で高度な内容ながらも、拝聴させてもらった。

@そこで感じたのは、「脳」と「魂」≒「心」との間には、流通化されない、ましてや安易にTVドラマなどに通俗化されない、実に込み入った、ややこしい問題が幾つも横たわっている、ということだった。例えば「喪失」とか「欠落」という、一件易しそうな現象にも、その奥を掘りかえそうとすると、「決して見過ごせない」重大な本質が転がっているという。それは単に欠落か喪失と引き換えに『何か』を得る、という問題以外にも非常に深い問題を内包しているという。

@この対談に出席された茂木健一郎博士が真正面から向き合って取り組んでいる、人間が世界を把握するために必要な感覚(Qualia)と偶有性(=偶然性,Contingency)、相互作用の同時性、自由意思と欲望との関係…などという、極めて「パラダイム・チェンジ」が必要な難題は、昨今の「脳」ブームに浮かれる風潮からは(それが脳科学界にとっても、取り上げられるべき重大なテーマであるにも関わらず)端っこに置かれてしまっている、ということを、茂木博士自身が語っていたのが、印象に残った。

@また、Qualiaと生命哲学とのつながりは、Qualiaを突き詰めると生命原理から離れていくという逆説性はあるものの、(最終的には)必ず見えてくるという話は、私自身にとっても何故か合点のいく話であった。何故なら、感覚とか意識(無意識)の生成、志向性などというのも、、呼吸や食物摂取などと同じく、生命活動の一環としか感じられないからだ。

@会場のようすの印象として、合田教授が非常に難しい質問を茂木博士に投げかけ、茂木博士がそれを受けとめ、うんうんと考えた後で応えていたのが記憶に残っている。

@この対談を聴いた後で、強く感じるのは、昨今の「脳」ブームと、脳科学と哲学とが、それぞれが向き合うべき、上に述べたような難解で複雑な問題を解き明かす力をまだつけていない、ということだ。

@これらの難問を解き明かすには、如何しても本当に考えかたの一大転換というか、パラダイム・シフトというか、そうしたものが必要で、それが起これば、大きな知のブレイクスルーもきっと起こりうる、と思った。
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自らの『クローン』を後継者に…。~ヤマトシロアリ~ [雑学小論文]

@So‐netニュースサイトを調べていたら、こんな驚異なニュースがあった。

(09/03/08 03:14更新 讀賣新聞より)

@なんと、ある種のシロアリの女王(♀)は、王(♂)と交わらずに自分の後継者を産み出すのだという。これは、日本に多くいるヤマトシロアリの女王。自分の死後に巣(王国)を受け継ぐ新女王を、王と交配しない単為生殖で産むことを、岡山大学の松浦健二准教授(昆虫生態学)らが発見した。今月17日から盛岡市などで始まる日本生態学会で発表する、という。

@これまで、シロアリの女王は、王と女王とが交配して産まれる娘シロアリがなるものだと考えられてきた。それが、実は女王自身の『分身』で、女王の座を巣の続く限り守り続けるというのだ。つまり女王は、自分の『(天然)クローン』を産んで、それを女王の座に君臨させ続けるのだ。何とも驚くべきシロアリ類の生態の一端だ。

@シロアリは、最初は一匹ずつの王と女王がペアで王国の基礎を作り、働きアリや兵アリ、生殖能力を持つ羽蟻などを産んで、王国を構築、拡張する。今回、松浦氏らがヤマトシロアリの生態や遺伝子を詳細に調べた結果、女王は通常王と交配して、働きアリや兵アリなどになるタマゴを産卵する。が、その中の2~5%は単為生殖によって産まれた女王自身のクローンであり、これが新女王として王国を継承することがわかった。

@王国の規模が拡大するにつれて、一族郎党を増やさなくてはならない。が、女王だけでは産卵数が不足しがちになると、新女王たちが王と交配し、一族を増やす。シロアリの女王は実は5~10年しか生きない。逆に王は20~30年も長生きする。しかし女王が身につけた、この自己複製能力のお蔭で、初代女王の遺伝子をそっくり受け継いだクローンがまたクローンを産み出し続ける為、王国の存続する限りは、初代の遺伝子を持つ女王が「君主」として君臨し続けることとなる。

@自らの実質上の後継者をクローンの形で産み出すヤマトシロアリの女王。今回明らかになったこの新事実にも、自然の巧まざる、しかし“特定の絶対者”によらない、不思議な工夫が見えて隠れている。若し、人間社会で、人工的な単為生殖が可能にでもなれば、少子化に長いこと悩む文明国などにとっては、ある意味、福音になるかもわからない。が、そうなると、男性の役割とは何だろう?などと、男性の存在意義が問い直される事態になるやもしれぬ。
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『偶有性の自然誌』(Natural history of Contingency)① [雑学小論文]

@昨日(7/14)、東京は銀座・アップルストアのインターネットコーナーで、脳科学者・茂木健一郎博士の「クオリア日記」を開いて、それに収録されている音声ファイルを聞いていた。(自宅のPCの、音声ファイルソフトがイカレている為)

@なんでも、彼のこれまでの科学者人生を賭けた、非常に重要なミッションについて、その概念を学生たちに語ったものらしい。この音声ファイルは1時限目と2時限目に分かれて収録されており、私が聞いたのは1時限目のほうであった。

@タイトルは『偶有性の自然誌』。7月4日に、東京大学駒場キャンパスにて行われた、認知科学における集中講義の様子を博士自らがファイリングしたものである。

@この講演で彼が言いたかったことは3つ。①偶有性(contingency)という概念について、真面目に考えるとこれが難しい問題だ、ということ②その偶有性についての明確な理論化、③理論化した偶有性をダーウィンのように『自然誌』として世界に問いたい、である。さらに博士は、従来からライフワークとして続けている「クオリア」の問題探究と、この偶有性とに補助線をひいて、結び付けるのだ、と言っていた。

@偶有性とは、あらかじめ人の頭の中で予測が出来る事と、全く予測外(想定外)の事がだいたい半々(50:50)の確率で起こる、この世界を満たしている性質をいう。つまりは可能であるが必然ではない/必然ではないが不可能ではない、というのを偶有性という。これについては「なにも難しい概念ではなく、たとえば『運が悪い/運がいい』というのはこの偶有性によるもの」だという意見があるのだが、博士は、いざ偶有性について本当に真正面から考えると、これが難しい、と述べている。

@博士によるとこの「偶有性」概念は、西欧ではともかく日本では一般概念として浸透していない、ということであった。要するに、この世界は何でも起こり得るし、何が起こるか予想できないものだ、という概念が「偶有性」なのである。たとえば、生物の行動は予測できない(それは相手に自分の動きを予測させないためだ)とか、何時大震災が起こるか判らない、というのは、実は偶有性によって成り立っているのであるという。

@講演の始めで、博士は日常というのは、偶有性に満ちあふれている、と言ったあとでこう述べた、そもそも、日常生活が行われているということは、如何言う事か。一つの決まった文脈(context)だけでは説明がつかない、と。

@脳の意識の問題についても同じで、意識は、それが、どのようなプロセスを経て生まれるのか、これもまた一つの決まった考えだけでは説明不可能だ。そもそも、何故人間は物事を認知するための高度なプロセスを持つにいたったのか、という説明が今はない、と。

@これらの問題について、博士は、ダーウィンが『種の起源』で明かしたところのレヴェルでさえ今の脳科学・認知科学は達していない、と語っている。…たしかに、言われて見れば、感覚(五感・六感)の質=クオリアの発生起源にしたとて、まだまだ今の脳科学や認知科学の現場のレヴェルでは解き明かされてはいないらしいもんね。

@さらに博士は、彼自身の見解として、認知科学の問題をタンに「脳」だけの問題として扱うのは、間違っているとは言わなくても、おかしいと思う、とも語った。…そう言われて見れば、“認知”の問題は、彼のいうとおり、本当は自分の「脳」だけでなく、周りの自然(環境)とも関わってくる問題なので、それを単なる「脳」だけの問題として扱うのは、「人間」と「環境」との関係性を考慮にいれたら、不自然なのではないか、認知問題もこれからは「脳」だけでなく、実際の世界と結びつけてトータルに考える時代にきているのだな、と彼の音声を聞きながら思った。

@またさらに、偶有性は、人と自然との関係性の中に存在する、とも述べている。これは実際の世界が如何言う風になっているかを考えれば、おぼろげながらわかってくることだ。つまり「人間」と「環境」とは、別々のようでいて、実は互いに関係しあっている。(余談だが大乗仏教における世界観の概念の中に「依正不二」(えしょうふに、と読む)とあるが、これは人間(正報)と環境(依報)は切っても切れない(=依報と正報は二つにして一つ)という関係性にある事を示しているとされる)

@茂木博士は、講演の後半では、ガスのようなカオス(混沌)とクリスタルのようなオーダー(秩序)の中間に偶有性が含まれているという説明をした。秩序と混沌の間に偶有性があるということは、世界は、自然は、そのような構造になっているとも言える、ということなのか。

@話は確率論的な論議まで及ぶ。“自然”を細かい、量子力学的なレヴェルまで分解すると、自然→原子[電子(中間子)陽子]→素粒子、になる。それには確率論的なもの(相互作用)が含まれているという。

@それと前後して、博士は、先に述べた意識の問題について、その解明については、余程の大きなブレイクスルーがないと解けない。この問題を解く為のヒントとして、確率論の中に〈事実〉と〈反事実〉が一つの数学的スキーム(=相互作用)の中に入っているという考えかたがある、と述べていた。

@このことは、何も茂木氏だけではなく、すでに数人の人が考えていることだという。

@さらにそれと関連付けて、博士は、人の持つ「感情」の中にその確率論的な成分が含まれている、という話をした。それは「後悔」という感情で、これは、事実と反事実がそろっていないと生まれないんだそうだ。そこで彼は、ある実験の例を示した。

@数人の人達に二通りのゲームうち、どれか一つを選んでもらい、あとでその人達が選んだゲームの結果を示すと同時に選ばなかったゲームの結果も示して、その時に現われた被験者の感情がどうなのかを見る、という実験だ。

@もし、選んだゲームの結果が選ばなかったそれよりも好かったならば、被験者たちに「やったね!このゲームを選んでよかったよ!やっぱ、選んだもん勝ちだね」という会心の感情が浮かぶし、逆に選ばなかったゲームの結果が選んだそれより好かったら、「あの時このゲームを選んでいたらなぁ…あ~あ損しちゃったよぉ~」という後悔の感情が浮かぶという。

@人間の感情、特に後悔の念は、事実と反事実といった相互作用的なものがそろって生まれることの証明に、この実験のキモがあったというわけだ。

@また、こういう感情はある文脈に依存して生まれるという。それは人間の社会的認知の一つであるという。

@人間には、眉間にあたるところに、文脈依存の認知を司る部位(orbit frontal)があるという。これが壊れた人は後悔の念がおこらないらしい。

@…以上のように、こうした意識や認知にまつわる諸問題や、自然や人間の関係性をも含めた、世界を満たしている偶有性の問題について、始めにこの記事で書いたように、長い時間をかけて理論化し、それをダーウィンの如く『自然誌』として、世に問うのだとの見解を示した。最後にヨーコ・オノ・レノンのハプニング・アートの話をして、1時限目は終了した。

@人生と世界は別々に出来ず、予測できることもある一方で、何時、何が起こるか判らない、という世の実相を、この茂木博士をはじめとする、世界の優れた頭脳は「偶有性」(contingency)という言葉で表わした。第2時限目の音声ファイルでは、この偶有性の問題とクオリアのそれとを結びつけるという構想について語るのだが、それは近いうちに聞くとしよう。

@ともかく、私たちは、この偶有性なるものに満たされた宇宙の中の、一個の惑星の上にある、ちっぽけなこの一角で、それぞれの日常を懸命に生きているのだから。


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ドメスティック・ヴァイオレンス(DV)野郎の野放しを許すな!! [雑学小論文]

@開闢以来、というか、昔から兎に角、日本という島国は男にある意味、限りなく「権限」や「自由」を与え、思うが侭にさせてきた。反対に女に対しては、男に従属する為のあらゆる「慣習」をつくって、それに縛りつけ、人間として生きる権利を認めず、一種、男の「奴隷」として生きることを強いてきた。

@その結果、人間らしく生きたいと願う女性を暴力(腕力あるいは言葉での)で蹂躪し抜き、精神的に立ち直れないほどの決定的ダメージを与え、逃げたら探し出して殺してまでも、女性を従属させたがる、もはや人間とは言えず、限り無く魔物に等しい男たちが沢山出現するようになった。

@最早、ドメスティック・ヴァイオレンス(DV)の加害者から被害者を隔離するだけでは、魔物たちの魔手から女性を守れない事態まで起こりつつある。徳島で、夫のDV被害から逃れた妻が、居場所をそいつに見つけ出されて殺害されるという、悲惨な事件が起こった。もうこうなったら、DVを繰り返す魔物たちを、現行法律(1年以下の懲役、または10万円の罰金刑)よりも厳しく罰しなければ、被害女性の命の保障はできない。

@それにつけても、このへんてこな島国は男にはトコトン甘く、女には地獄のように厳しい。生物学的にも、社会的位置でも、強者に限り無くやさしいのが、この国の悪しき特徴なのだ。タチの悪いことにDVを繰り返す魔物たちは、たいてい強者のカテゴリーに入る。

@今後、DVによって精神的に追い詰められた女性たちが、女性である事を捨て、生きる為に性転換手術に走る可能性も考えられる。

@あるいは、男というのは暴力を振るう者と初めから決めつけ、一生結婚せずに独身を通して生涯を送る女性たちもたくさん出て来るかもしれない。

@以上はオーヴァーな憶測に過ぎないが、DVによってトコトンまで追い詰められた弱者が何時、復讐の念に燃え、どのようなかたちで加害側に立ち向かうか、分からないのである。

@女性は相手に対しても共感する性質をもつが、あまりにも暴力を受け過ぎるとその共感回路が破壊され、相手に向かって復讐をなすかもしれない。

@ところで、妻や恋人に向かって暴力を繰り返すDV野郎には、決定的な一つの特徴があると思う。それは、根本的には彼等は“精神的成長の止まったガキ”だ、ということである。

@奴等は、所謂「心のオムツ」が取れないまま、大人になってしまったのだ。心のオムツとは、母親的存在への、ベターッとした依存的精神のことである。そういう精神は、相手が自分の思う通りにならないと、暴力を振るってまで従えようとする。そうしてまで、あいてに自分の母親的存在でいて欲しいと、DV野郎どもは願っているが、相手は母親とは違う、個々に自立した個人である。しかし、DV野郎には、それがわからない。

@DVをする奴等は、そういう依存的精神を大人になっても引きずっている。

@問題なのは、そういうDV因子を持つ者が、世の男性にどれぐらいいるかわからないということである。

@本当に罰則を強化しないと、今後「巨大なガキ」どものDVによって命の危機にさらされる女性は、さらに増えると予測される。

@女たちに限り無く暴力を繰り返す、狂ったガキ男たちに1年以下の懲役というのは甘過ぎる。もっとも、法律を拵えている主体は男ばかりだから、甘くなるのかな。

@せめて懲役1年を、90~100年にし、罰金を10万円程度から1億円程度に大幅値上げしたほうが好い。彼等は所詮女性の人権と命を破壊する「家庭内テロリスト」なのだから。

@兎にも角にも、これからは女性を迫害し、あまつさえ殺戮にいたり兼ねない、DV野郎の野放しは、決して許してはならない。


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アマゾンレビューを読む~ゲーム脳の恐怖/水は答えを知っている [雑学小論文]

@アマゾンの日本版のブック(和書)レビューを読んでいた。中でもきちんとした科学的な証明や論拠がえられていない「トンデモ」系のレビューは凄い。

@マズ「ゲーム脳の恐怖」(森昭雄著)。この本についての批評はホトンドの場合、データが好い加減だの、子供を恫喝しているだの、といった内容についての批判が多い。批判している人はいろいろいるが、エンジニアや科学関係に携わっているらしき人の本書批判は一読に値する。

@データの取りかたや、α波についての記述の誤りを指摘している。アルファ波がリラックスの時に出る脳波だってことは小学生でもわかる理屈だ。それが悪い脳波だなんて…。そして何よりも、ゲームをやると認知症になるという、ある意味強引な論理を振りかざしていることも批判されている。

@また「水は答えを知っている」(江本勝著)。これは素晴らしいという人と、科学的に検証できないのでおかしいという人と、半々くらいだ。ちなみに私はこの本は写真は美しいが、水自体に言葉がわかるはずがない、最初から論理が破綻している、水が言葉を理解するかどうかなんて科学的に検証不可能だからインチキだ、と思っている。

@さて、この本のレビューの中に有名識者の書いたものがあった。内容を覚えている限り要約すると、カテゴリ的に破綻している、自分の他に異質な他者のいることを理解出来ない、言葉を理解するのは人間の脳に対してのみであって、水がそれを理解出来るわけがない、自分がそれを美しいと思うからといって相手もそれを美しいと思うはずだというのはファシズム的心性だ…などといって、この本が如何に「トンデモ」本であるか、本来の科学と紛らわしい擬似科学の本であるか、ということを証明している。

@しかしちょっと前に本ブログの記事でも述べたが、こういう擬似科学に引っ掛かり、素晴らしいと思ってしまう人が本当に多い。

@擬似科学はオカルトや似非宗教と同じであるばかりでなく、科学そのものの存在意義を大いに脅かしている、危険極まりないシロモノであることを知るべきではないか。


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脳ブームと日本人の思想観・宗教観 [雑学小論文]

〇世の中には、まだまだ宗教団体が政治に関わることに違和感をもつ向きが多そうだ。しかし、かの印度独立の父、マハトマ・ガンディーも述べているように「宗教無き政治は国家の首を吊るロープ」でしかないのである。

〇現に欧州ではキリスト教者が政党を作って政治に関わっている。それに対して現地では誰も文句を言ってはいない。日本も少しはそれに倣い、宗教者(カルトと呼ばれる呪術的教義を掲げるもの、あるいは宗教の衣を着たテロ集団は論外)がもっと政治に関わる状況になったら、世の中はもう少し今よりはマシになるのではないか、と思う。

〇ところで、昨今はやりの「脳ブーム」とやら、少しは落ちつきを見せたのだろうか?

〇「脳を鍛える」「脳が活性化する」という触れこみで発刊される(「ドリル」やら「塗り絵」やら、はては「写経」まで出ている!)「鍛脳本」は素人目から見ても、発刊のペースがなかなか落ちる気配がない。むしろ多岐にわたっていろいろなタイプの鍛脳本が出て来るありさまである。

〇しかし、どれほどそれらの鍛脳本で“脳を鍛えたつもり”(そりゃ、少しは活性化するだろうよ)になったとて、それが人生をよりよく生きることに必ずしもつながらないのでは、という思いが如何しても抜けない。人生をよりよく生きるには、まずは行動をおこして人に会い、本物の芸術、思想に触れ、自然に出来る限り触れ、生の体験を積むことだ。

〇それが、本来的な意味での“脳の鍛え”となる。と同時に、おのれの人生をそのぶん、よりよい方向へ生きるということになるのだ。これは脳の研究の第一人者もお墨付きを与えていることだ。

〇それにしても、脳ブームが一向に衰えを見せないのは何故か?「ボケたくない」、「賢くなりたい」という、我々大多数の日本人の欲求が脳ブームを衰えさせるどころか、ますます過熱させているからなのかもしれない。

〇そしてそのもともとの深層を観て見ると、やはり、「きまった宗教を持たない=確固たる人生哲学を持たない」というところに行きつく。宗教を信ずるということは、人生哲学を持つことに通ずることなのだ。

〇個人個人がそれぞれ、何らかの宗教を信仰していたら、こんなに脳ブームが熱くなりすぎることはないし、何よりブームそのものも起こらなかったに違いない。

〇よく、日本人ほど宗教に対して「寛容」な民族はないと言われるが、一面から見れば、その「寛容」さは、本当の意味での「寛容」ではなく、実は宗教に対して「無頓着」だというだけなのである。多神教国家といわれればそれまでだが、それにしても確固たるものが感じられない。大多数の日本人の、宗教に対する感覚は真の「寛容」とは違うような気がしてならない。

〇実は数多の宗教には、各々比較して教義の高い、低い、深い、浅いという差があり、教義のレヴェルが低い(たとえば“おまじない”程度の)、浅い宗教ほど原始的であるという。これは、宗教というものの本質を少し研究すれば分かることなのだ。

〇日本人はご利益(現世利益)さえあると思えば、たとえば蛇すら拝んでしまう。マァ原始宗教しかなかった大昔なら、それで十分ご利益があったかもしれないが、今やGoogle全盛、インターネットの網の目が世界中に張り巡らされている現代、何時までも蛇を拝んでいてはどうかと思う。いや、「信教・思想の自由」は憲法が制定する前から厳然と存在するから、蛇を拝もうと狐を拝もうと、それはそれで構わないのだが…。

〇しかし、それで本当の意味での「幸福」をゲットできるかといえば、別問題のようではある。ちょっとした小さな幸福ならゲットできるだろうが、この世から殺人や戦争がなくなる、という「平和」と関係ある大きな「幸福」は蛇や狐を拝んだ程度では実現できまい。

〇やはり、現代には現代人の抱えている様々な苦悩、不幸を克服させ、大きな幸福をゲットさせ、引いては世界平和を実現させるだけの力のある宗教が求められているのである。いくら信教の自由とはいえ、蛇や狐を拝んだ所で本質的な苦悩や不幸の克服にはつながらない。

〇その力ある宗教は必ずしも新興宗教とは限らない。古くからある宗教の中に、ひょっとしたらそれはあるのではないか。


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TVのこれから~ハードは進んだがコンテンツはどうよ?(後編) [雑学小論文]

前回の記事の続編です。

★③TV黎明期~成熟期の傑作ドラマたち★

 ドラマの世界でも、NHKが朝のテレビ小説や大河ドラマ等で数々の名作・傑作を次々と世に問うその一方で、民放TVでも、TBS(東京放送)からは初期のジュニア向けアクション特撮「月光仮面」や芸術祭でグランプリを獲得した、かの東京裁判におけるB,C級戦犯の悲劇を描いた「私は貝になりたい」、TBS初期の探偵ドラマ「日真名氏飛び出す」、“刑事”という職業をカッコイイものにした最初のドラマ「七人の刑事」、正義感に篤い脳外科の青年医師が活躍する海外発医療人間ドラマ「ベン・ケーシー」、そして!平均視聴率50%超を記録した“オバケドラマ”「ありがとう」、マチャアキこと堺正章の「おかみさ~ん!時間ですよ~!!」というフレーズと女風呂シーンが話題の「時間ですよ」、その他「お荷物小荷物」、「柔道一直線」、「アテンションプリーズ」、「おくさまは18歳」、「サインはV!」、「岸辺のアルバム」、「寺内貫太郎一家」、「ムー」及び「ムー一族」、「ケンちゃんシリーズ」など話題作や名作が1950年代後半~’80年代前半にかけ次々と放映され、「ドラマのTBS」の名声を確立していった。

 TV朝日(当時はNET=日本教育テレビ)からは「氷点」(余談だがこの「氷点」というタイトルをもじったのが、いま日テレで毎週日曜夕方5時半から放映中の、あの「笑点」だといわれている)、’60年代に大人気だったウェスタンドラマ「ララミー牧場」、「だいこんの花」、’70年代後半(1977年)に放映されたピンクレディー主演の「気になる季節」、あの石原プロ総出演のハードアクション「西部警察」などが放映され、人気を呼んでいた。

 日テレからは、「ミステリーゾーン」(トワイライトゾーン)、「バークにまかせろ」、「細腕繁盛記」(新珠三千代主演)、「前略おふくろ様」「傷だらけの天使」(萩原健一主演)、「パパと呼ばないで」(石立鉄男・杉田かおる主演)、「水もれ甲介」、「雑居時代」、そして忘れてならぬ刑事ドラマの歴史的傑作「太陽にほえろ!」(松田優作扮するジーパン刑事の殉職シーン”なんじゃこりゃー!”は後世に長く語り継がれる傑作シーンだ)、などなど、それこそTBSに負けず劣らず、品質の高い傑作がこれまた次々と放映された。

フジでは、「お嫁さん」、「せっかちネエヤ」、「スパイ大作戦」(ミッション・インポシブル)、「銭形平次」、「ニューヨーク恋物語」などが、民放キー局としてはいちばんしんがりに開局したTV東京(当時=東京12チャンネル)からは「プレイガール」、「ハレンチ学園」、「愛と誠」、正月必ず放映される恒例の「12時間時代劇」など、他局ではなかなかやれないユニークなコンセプトのドラマが製作され、人気を得た。

 その他「おれの番だ!」「でっかい青春」「飛び出せ!青春」「池中玄太80キロ」(日テレ系)、「3年B組金八先生」「うちの子にかぎって」「男女7人」シリーズ(TBS系)、「鬼平犯科帳」(松本白鴎主演のもの・TV朝日系)、「破れ傘刀舟・悪人斬り」(同)、「子連れ狼」(日テレ系)…などなど、国産・輸入問わず、それこそ数え切れないほどの(放映が短期で終わってしまったものも含めて)TVコンテンツ史に残る傑作・名作が作られては放映され、巷で格好の話題のタネになったのである。

1950年代後半~’80年代前半に作られたこれらのドラマにも、やはり製作者側の「他には出せない、いいものをつくろう!」という思いと、あの手この手のさまざまな、凝った、若しくは笑える演出、そしてテクノロジーを支える技術陣の、如何に美しく、リアルに、たのしく感動的に見せるか、に書けた強い思いが込められているからこそ、今見ても観賞に堪え、後世に残り、心に響くものが多いのだ。

★④バブル期に始まり今に至るヴァラエティとドラマの荒廃★

 翻って今はどうか?……最近は私自身、ヴァラエティはおろか、ドラマはホトンド観なくなった。観るのはもっぱら「世界遺産」(TBS系・毎週日曜11時30分より放映)のようなドキュメンタリーものばかりなので、最近のドラマやヴァラエティについては、これといったハッキリした評価は下せない。

 1980年代後半~1990年代前半、つまりバブル経済全盛からその崩壊直後にかけて作られた男女の恋の行方をお洒落にテーマ化した、いわゆる「トレンディドラマ」なるドラマがどこの局にチャンネルを合わせても放映されるようになった。TBS系で放映された「金妻」(「金曜日の妻たちへ」)Bなどは、その典型である。

 まあ単純というか、おきまりというか…とにもかくにも「恋愛」というワンパターンなテーマに終始したその手のドラマは、少なくとも私のようなTVコンテンツに社会性と上質のユーモア、そしてエスプリと知的刺激を求める視聴者(こういう視聴者は比較的少数派だが)の支持を失ってしまった。

 そして、ヴァラエティーも素人バンドが腕前を競う深夜枠の“バンドののど自慢”「平成名物TV・いかすバンド天国」以来、いつしか精緻な作りこみのコメディーから、素人バンド演奏とか素人演芸(ものまねなど)が主流になってしまい、内容も知的レベルも’60年代につくられたそれらからは格段に低下した。

 今やTVディスプレイのスイッチをポンすると、それこそもう素人に芸人の産毛がちょろちょろと生えたレベル、というか、とにもかくにも限りなくど素人に近い芸的レベルの芸人(もちろん中には本格的にプロフェッショナルと呼ぶべき「本物」もいることはいるが)が、これまた素人レベルのアイドルたちとの幼稚なふざけ合いに終始している。

 “ぱっと観”で、それはそれでそこそこ面白いのだが、しかし、如何せんあの’80年代(それも前半)までに垣間見られた、作り手側の「他にないイイものを作ろう!」「如何に美しく楽しく感動的に見せるか」などといった“強烈な思い”が、今のドラマやヴァラエティの大部分からは、あまり感じられなくなったような気がする。

 そして21世紀に突入しても、ヴァラエティやドラマの内容もしくは質の低劣化は、今に至るまでとどまるところを知らない。

 つい最近、ある民放キー局が製作した「科学」を「ネタ」にしたヴァラエティ番組で“やらせ”が発覚し、放送が打ち切りになった事件があったが、これは、本来真面目かつ慎重に扱われるべき「科学」というテーマをTV局や製作会社が視聴率稼ぎの為なのだろうか、単なる好い加減なヴァラエティの「ネタ」としてしか扱わなかったことによって起こってしまった事件といえないだろうか。

 そこには、TV局・製作者サイドが、科学という「素材」に対して謙虚で真面目な姿勢で取り組まず、むしろ逆に視聴率稼ぎのネタとして、これと向き合ってしまったが故に、収録スタジオに現われた白衣の科学者を、科学に対して素人そのもののタレントが散々いじくりまわして、放送用TVカメラのまん前で、完全な「笑い者」に仕立て上げられてしまっている、といった実態があった。

 これでは、青少年の「理系離れ」に歯止めがかかるどころか、寧ろ余計に拍車をかけることになりかねない。

 こんな好い加減な「科学ヴァラエティ」が作られるそもそもの背景にはTV局・製作会社・出演者サイドの科学全般にわたる「無知」が潜んでいるようだ。

 TVを毎日視聴している私達の大部分は、科学については疎いのが実情だ。視聴者がそんな状態だからこそ、科学を扱う番組を作る際には、製作する側は科学に対して先ずキチンとした知識を身につけ、科学になるものがどんなものであるかを認識するべきなのに、生半可な知識しか身につけていない上に、フツーのヴァラエティ番組をつくるのと同じ感覚で「面白ければ何をやってもすべてよし」と、科学の知識のほとんどないタレントを起用して、白衣の科学者を、それこそゲスな漫才でのツッコミよろしくやたらと突っつきまわし、いじくりまわしてカメラの前で「道化者」に仕立て上げてしまう。

 それを観ている私達は、ただただ、ゲラゲラゲラゲラ笑って終わり。

 科学者が番組の中で提示した知識なんて、その番組を観た私達の頭の中にはいくらも残っていない(よほど科学というジャンルに興味津々な人たちは別かもしれないが)。番組で得られた科学の知識などは我々の頭の中には少ししかなく、大部分は科学者を突っ込んでいたタレントのくだらないツッコミギャグだけしか覚えてなかったりして…。

 これで果たして科学の知識なんて視聴者に身につくのかしらん。ましてや、青少年の科学教育には、こういう科学というテーマに対する不真面目な姿勢で作られた番組は、果たして役立つのか。正直いって大いに疑問を呈せざるを得ない。

 科学以外の他のジャンルをネタとして扱うヴァラエティにしても、どうも製作者側、出演者側の「おふざけ」が目立つ番組が、観ていて結構ある。特に恋愛モノやお笑いモノにそれが多くて視聴していて辟易することがある。

 お笑い系に関して言わせてもらえば、落語なり漫才なり、芸人の「芸」をキチンと見せる、というより、出演者同士のフザケ合いばかりを見せて、茶の間の笑いをとろうという、本来あるべきお笑い番組のありかたからは逸脱したことをしている。近年はそういう番組が多いように思う。

 中にはある女性タレントの、過去のプライバシーを暴きたてたが為に、週刊誌の格好のネタにされ、挙句の果てに社会問題にまで発展してしまった番組もある。

 また素人(その人個人の“ノリ”によるであろうが)参加OKのヴァラエティで、司会を務めるタレントや局アナウンサー(フリーアナウンサーの場合もある)が、無闇にその素人を過剰にツッコミまくっている(ことに民放系はその傾向が強いように見える)。

 ノリのいい素人さんならば、結構自分の「隠し芸」ネタをTVカメラの前でも少々アガリながらも発表してくれるのだが、非常に恥ずかしがりやでノリの悪い人は、TVカメラに観られただけでもあがってしまうのに、司会のあまりも過剰なツッコミに気圧(けお)されてしまい、中には結局ネタらしいネタも出すことができずに、出番がすむまであがりっぱなしの人も居る、ということも多々あると思う。

 視聴率さえ上げれば、面白くありさえすれば、倫理に引っかかろうが、視聴者からクレームが来ようが、何をやってもいい、内容の検討なんて、そんなに厳しくしなくていい、という安易な姿勢ばかりが、昨今のTV製作・放送局サイドの話題を見聞きしていると、やたらと目に付いているように思えるのは私だけであろうか。

 今やTVのハード面が日進月歩の早さで進化につぐ進化を遂げつつあるのだから、TVのソフト面を担って立つすべての放送局&コンテンツ製作者側及び芸能プロダクション側が、もっと本腰を入れて、あらゆるジャンルに対し、真摯に向き合って「勉強」し、キチンと知識を教養を蓄え、視聴率云々をさしおいてでも如何に人の心に響く、人心の琴線を震わし揺さぶる、新しい世紀のTVディスプレイに映すに相応しい、良質の番組を如何にして作り、視聴者に届けてゆくかということを、常日頃からキモに銘じながら、番組製作を心がけるべきではないのか。

 たとえそれが、たかがドラマやヴァラエティであっても、だ。


 NHKの受信料不払いは今に至るまでとどまるところを知らない。国営でも民営でも、昨今の放送業界はいろいろ不祥事が目立つ時代になってしまった。また最近では、TVを観るよりインターネットでいろいろ情報を得たほうが便利で手っ取り早い時代である。したがって、嘗ての「ゴールデンタイム」なる時間帯も消えようとしている。時代の大きなうねりの中で、従来の製作手法から脱却できないまま、TVコンテンツはいったい何処へ私達を誘おうとしているのか…。1950年代から茶の間の私達にさまざまな夢を与えてきた魔法の函、もしくは魔法の鏡は、これからは何をいったい、私達に与えてくれるのだろうか。


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TVのこれから~ハードは進んだがコンテンツはどうよ?(前編) [雑学小論文]

 いつも見ているTV。毎日欠かさず見ているTV。仕事を終えて家に帰ると、何よりまず真っ先にすることは、TVのスイッチをONにすることだ。 このブログを読まれている方々も、その他大勢の方々も、大抵はそうではございませんか。

  ★①日本のTV史に光を放つ「エンタの殿堂」★

 そのTV。20世紀初頭の発明以来、ずっとブラウン管主流の時代が続いてきたが、近年は液晶やプラズマなどの薄型TVディスプレイが主流になった。その薄型ディスプレイが先日、売り上げで初めてブラウン管を逆転した。いまや家庭のTVは完全に薄型へと移行しつつある。その薄型TVも、ごくごく最近になって、液晶やプラズマのほかにも、有機ELや、ブラウン管並の高精細な画像を生み出す「SED」などといった新手のディスプレイ用デヴァイスが登場し、また同じ液晶でも、これまでの液晶の画質を上回るといわれる第7世代(SONY,Samsung)、第8世代(SHARP)のパネルも開発され、すでにTVディスプレイ用デヴァイスとして商品化され、出荷されているものもあるというわけで、まさにこれらは“雨後の筍”の如き多種多様な規格の乱立ぶりを呈しているといえよう。

  また日本では、これまで輝度、画質ともに難ありとして普及しなかったリアプロジェクションTVも輝度、画質ともに格段にアップし、サイズも60インチ前後程度のものが現れ、日本的な室内環境でみ十二分に鑑賞に堪える製品が各メーカーから順次発売され、爆発的普及の時を今か今かと舞っている状況である。

 このようなTV界における、ハードウェア面での日進月歩の進化と多数の規格乱立ブリには驚くと同時に、目を見張るばかりだが、ことソフトウェア――コンテンツの進化の問題となると話は別だ。

 ハッキリ言って、TVのスイッチを入れた後、どのチャンネル番号のボタンを押しても、

 「これは!」

 という、画期的で素晴らしいコンテンツには、なかなかお目にかかれない。みんな似たり寄ったりの内容、コンセプトの番組だらけだ。こんなことでコンテンツの未来は如何なるのかしらん?ハードウェアはおそろしい勢いで進化を遂げつつあるというのに…。

 かつて、夕方6時半~夜の9時の「ゴールデンタイム」といわれた時間帯では、一世を風靡した伝説のヴァラエティ番組「シャボン玉ホリディ」(日テレ系:放送期間1961年~’72年、毎週日曜6時半放映)が放映されていた。

 この「シャボン玉ホリディ」は今から思えばまさしくそれこそ後世の語り草になるほどの、日本のTVヴァラエティ史に輝く「エンタの殿堂」だった。

 「シャボン玉~」は、演出は日テレだが、構成・制作はすべて渡辺プロダクション(通称・ナベプロ=当時、この芸能プロダクションはショービズの世界で、まさに日の出の勢いを誇っていたのであった)による「ユニット番組」と呼ばれる、当時非常に斬新な構成で作られた番組であった。この番組のタイトルの“シャボン玉”は’72年の番組終了まで一貫してスポンサーを務めた牛乳石鹸共進社㈱の主力製品である石鹸の泡=シャボン玉に因むもの。

 メインナビゲーター(司会者)にナベプロが生んだ大人気アイドルとギャグメーカー、ザ・ピーナッツ&ハナ肇とクレージーキャッツを起用し、歌あり、ギャグあり、コントありとそれこそかの「エド・サリヴァンショー」もまっつあお(?!)の、何でもありの楽しいパフォーマンスを当時麹町(東京都千代田区二番町)にあった日テレの本社スタジオから、ブラウン管を通してお茶の間に届けた。そして、大物歌手から若者に大人気のアイドル達まで、数多の有名な大型アーティストを毎週出演させてお茶の間を沸かせた。

 エンディングでピーナッツがしっとりと歌う、かのナット・キング・コールのあまりにも有名なヒットナンバー「スターダスト」も話題となった。

 また番組内でクレージーキャッツの主要メンバーにして、ヴォーカル&ギター担当の植木 等(御存知でしたか?クレージーキャッツは初めからお笑いグループだと思っている方々が今や大部分だと思われますが、実は、彼等のそもそもの出自は「コミックバンド」だったのです!!因みにドリフタ―ズも初めからお笑いグループだと思っている方も多いでしょう。実は彼等の出自もバンドだったのです)が、彼自身偶然の産物と述懐する、かの伝説的なギャグもこの「シャボン玉」の放映中に生まれた。植木が自分の出番を間違えた時に思わず発した下のようなフレーズが皆の笑いを呼び、それがそのままギャグになったのだそうだ。↓

 「おっと!…お呼びでない?…お呼びでない!…お呼びでない、ね!いやぁ~ぐわっはっはっはっはっは! (と高笑い)、…こりゃまた失礼いたしましたっっ!!」(ここで一同大ズッコケ!全員大爆笑!)

 上の「お呼びでない」以来、植木は「シャボン玉」の中で次々と傑作ギャグフレーズを連発した。「こりゃあ~ショックだった!」、「ハイ、それまでよ!」、…そのホトンドが日本のギャグ史に残る傑 作フレーズとなった。同じく主要メンバーでトロンボーン担当の谷 啓も、

 「ガチョーン!!」、「ハラホロヒレハレ~」

 …など、日本ギャグ史にこれまた燦然と輝く名(迷?)フレーズをやはり「シャボン玉」の中で連発しまくって、お茶の間を笑いの渦に巻きこんだ。

 そして『スーダラ節』、『ハイそれまでよ』といったクレージーによる数々のオリジナルコミックソング・ナンバー(作詞は青島幸男、作曲は萩原哲晶による作品が多い)が番組内で初披露され、映画(『ニッポン無責任時代』など)映画にもなってしまうほど、巷で大ヒットし、いまも歌い継がれるコミックソングの傑作となって後世の人々に記憶されるようになったのである。

 ★②TV黎明期~成熟期の傑作たち★

 TVの黎明期から成熟期にかけての時代、こうしたプロダクション側の徹底的な肝いりで、内容も綿密に作り込んだ、緻密でしかも視聴者側からみて、期待を裏切らない、本当に観ていて面白いヴァラエティが人気を呼んでいた。

 ①で紹介した「シャボン玉ホリディ」以外にも、各局でお茶の間エンタテインメントの傑作が次々と作られては放映されていった。これらの傑作のタイトルを、いまこの場で私の記憶している限り記してみたいと思う(なお、各番組が放映された年代についてはスペースの都合もあり、割愛させていただくので、御了承を願いたく存じます)。

 「ザ・ヒットパレード」(CX(フジTV)系)、「てなもんや三度笠」(藤田まこと&白木みのる主演、オープニングで藤田が叫ぶ「当たり前田のクラッカー!」は当時大人気のフレーズだった。ABC=朝日放送系、本放送当時はTBS系列で東京でも放映)「巨泉・前武ゲバゲバ90分!!」(日テレ系、オープニングで出演者がプラカードを持って登場するシーンと、ハナ肇扮するヒッピー風キャラクターが「アッと驚くタメゴロー!!」と叫ぶアホなワンシーンが笑えたものだ)「裏番組をぶっとばせ!!」(日テレ系、「野球拳」で有名。コント55号の司会で大人気)、「金曜10時!! うわさのチャンネル」(日テレ系、和田アキ子の「ゴッドねえちゃん」のコーナーは面白過ぎた!小学校のPTAでも「8時だョ!全員集合」とならんで問題になっていた)「ぴったしカンカン」(TBS系、後年の「ぴったんこカンカン」の元ネタ番組。あの久米 宏が司会をつとめていたことでも有名)、「アップダウンクイズ」(MBS=毎日放送系、初期はNET(現ARB=テレビ朝日)系、後期はTBS系で全国ネット放映。ロート製薬㈱提供のクイズ番組。回答者がゴンドラに乗ってクイズに答える形式。問題正解数が多ければ多いほどゴンドラが上がって、最高点をとった正解者はハワイ旅行に行けた)、「がっちり買いまショー」(江崎グリコ㈱提供のお買い物番組、MBS系。夢路いとし・喜味こいしの兄弟漫才コンビによる司会。彼等が連呼する「おりこうにグリコ!がっちり買いまショー!」が印象深い)、その他「今夜は最高!」(日テレ系、タモリと豪華ゲストの「からみ」が面白かった!)、「花王名人劇場」(CX/KTV系)、「パンチDEデート」(同)、「タモリ倶楽部」(ARB系、今尚放映されているゆるゆる系深夜枠長寿番組)などなど各ジャンルに亘るエンタ番組の名作&傑作の数々…。

 そして、日本のエンタ史を語る上で忘れてはならない二大カリスマ番組、それが「8時だョ!全員集合」(TBS系)と「オレたちひょうきん族」(CX系)である。

 前者はドリフターズをメインに、公会堂などで毎週生放送で公開収録されていた。毎週毎週我々当時の少年少女のへそに茶をわかせてくれた、オープニングのドタバタ大掛かりな大爆笑コント、“少年少女合唱団”のコーナー(ここから生まれた大ヒットソングが志村けんによる「東村山町内音頭」である)そしてドリフのメンバーがひたすらバカバカしい珍ギャグを展開していたショートコント集。

 その他、加藤 茶による「ちょっとだけよ」、加藤&志村の「ヒゲダンス」など、この番組からうまれたヒットは数知れない。そして、いまやその「全員集合」の名(迷?)場面集がDVDとして発売され、大ヒットしているのである!

 後者はビートたけし、明石家さんま、片岡鶴太郎、山田邦子など、いまのエンタ界の大物を全国区にし、世に知られるきっかけをつくった、当時フジTVディレクターだった横沢彪らによる演出のドタバタエンタ番組。1981年ころ、ちょうど「全員集合」の裏にこの「ひょうきん族」が放映されていた為に、互いに面白さと視聴率を争う事態となったことはいまや伝説の域に。この「ひょうきん族」から生まれたキャラクター「タケちゃんマン」や「ブラックデビル」も人気を呼んだ。

 以上に紹介した番組のうち、長続きしたものでも1985~1995年ぐらいまでの間に、そのホトンドが放映を終了してしまった。今に至るまで依然として続いているものは、「タモリ倶楽部」をはじめ、上では紹介できなかったが「新婚さんいらっしゃい!」(ABC/ARB系)、「クイズ・アタック25」(同)、「森田一義ショー・笑っていいとも!」(CX系)など、いくらもない。(後編に続く)


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