SSブログ

まことの、教養とは? [独白]

@ここ数年、世に溢れる、いろいろな「教養人」と称する人々を、ある時は書店での彼等の著書で、ある時はTV番組で、またある時は都内各所で開かれる講演会…などなど、で、見かけるようになった。

@私が思うに、自分がよく講演会などで遭遇して感銘する「教養人」は、あるべき「教養人」の枠を超えない、要するに形ばかりの好い加減なオピニオンたちとは違う、本物の風格を湛えている。

@恐ろしく有名な例では、故人では小林秀雄、西田幾多郎、湯川秀樹、在世の人では養老孟司、茂木健一郎、内田樹らなどである。これらの人々は、自分が見聞きして腑に落ちることを何時も語り、また実践しているように思われる。

@そういう人達が示す「教養」の定義…一番良く知っている例として、養老さんの言葉を揚げてみよう。

 「教養とは、人の心がわかることである」

@厳密に言うと、自分以外の他者の心を、察し、おもんぱかることが、まことの教養であり、それが出来る人が、まことの教養人というわけである。幾ら百科事典のように万物を知っていたとて、他者の心に無頓着であれば、それは単なる「物知り」に過ぎない。(但し、サヴァン症候群と呼ばれる人々は、この中に入らないと思う。彼等とて、百科事典のようになんでも知っていても、心の底では、人と分かり合いたいと思っているはずだ)

@人の心がわかることと、周りの“空気”を読む、ということは、一致する場合もあれば、そうでない場合もある。自分が周りの空気を何となく察することで、そこにいる他者の気持ちを和らげることはよくあることだから。

@しかし、そういう圧力が強過ぎると、他者に向かって己の意見を言いづらくなる。他者を思って自己の言うべき意見を言う事はとても大切だ。それもまた、人の心をわかることの範疇に入るからだと思う。どんなにその他者に反対されても、その他者のことを心から思って言うのだから。


@寧ろ恐るべきは、他者の心を慮らないのはおろか、その心を踏み躙る言動を繰り返す輩と、ありもしないことをさも本当らしく装って、世間に向かって吹聴する輩の多いことだ。

@匿名をいいことに、ネットの掲示板やこういうブログ、プロフで他人の悪口を垂れ流す人間、週刊誌などの公共既成メディアを利用して、ウソ八百を並べたて、世間に迷惑をかける人間、その道の「専門家」であることを鼻にかけ、あらゆる事に精通している知性の人を『マルチタレント』と呼んで見下す、日本の大抵の大学によくいるタイプの人間・・・。

@こういう人間は、なぜか大学を出ている人間の中にも非常に多い。彼らは一体、今まで何を教わってきたのであろうか。これでは何も教わっていないに等しいではないか。

@寧ろこれらの輩こそ、まことの教養なき、つまり人の心のわからない、「まことの無教養者」なのに違いない。無教養者の溢れる社会・国家は、いずれ衰亡する。


@他者の心を、察し、慮る心、思い遣りを示す心、他者の幸せを願いながら自分も幸せに成長しようとする心などの持ち主こそ「まことの教養人」なのだ。そういう人が社会に、ますます必要とされる、今はそういう時代なのだ。
nice!(2)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 1

過去最高記録更新中!何もしないでなぜ儲かる!?秘密の方法を限定公開中。今すぐクリック!

ちょっとしたことに気づくだけで、あなたの月収は最大2倍になります。公開期間を限定しておりますので、今すぐチェックしてください
by 過去最高記録更新中!何もしないでなぜ儲かる!?秘密の方法を限定公開中。今すぐクリック! (2010-05-10 08:53) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。