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遺骨から作るダイアモンド [独白]

@ここ数年、亡き人を葬り、あるいは偲ぶ形態も多様化していて、遺骨を海に撒いたり、ロケットに乗せて宇宙空間へと飛ばしたり、果ては遺骨そのものを使って人工石を拵え、装身具を作ったり、亡くなった人の顔に似せて布でそっくりさん人形を作ったりなど、実にさまざまだ。

@私としては、もし自分が亡くなったら、遺骨を山に埋めるか、海に撒くか、畑の土に混ぜて肥料にしてもらうか、それらがだめならコンクリートに混ぜて建材にしてもらいたいと思っている。(←半ば冗談ですが)

@ところで、死者を偲ぶやり方として、先にあげた装身具づくりのうち、死者の遺灰から純然たる炭素を抽出し、高温高圧で結晶させ、人工ダイアモンドに変え、綺麗に研磨・カットして装身具として仕上げるやり方がある。

@この遺骨からダイアモンドを作り出す企業は、国内外で幾つか知られている。スイスのアルゴダンザ社(日本法人がすでにある)やアメリカのライフジェム社などがある。

@私はその中のアルゴダンザ社のHPを見たことがある。ダイア業界からも高い評価をうけているという。クライアントから遺骨を受け取り、優れた抽出方法で炭素を抽出し、高圧高温をかけて炭素分子をダイアモンドの組成に組み替え、純度の高い原石を作り上げ、研磨・カットの後、美しい装身具に仕上げてクライアントに届けるといったやり方だ。HPを通じて申し込みが出来るとや。

@「お客様の声」のページも見てみた。皆さん、いろんな理由で大切な家族を亡くされて、その悲しみややりきれなさを抱えている時に、この会社の存在を知り、インターネットで同社のHPに申し込んだところ、短期間で故人が美しいダイアのジュエリーとなって帰ってきて、感謝に耐えない、という声が多い。

@出来上がったダイアは、結構青みがかった透明なものが多い。構成する成分(ボロン系の不純物が関わっている)の微妙な差に拠るのだろうが、会社によっては黄色のダイアが出来上がるときもあるらしい。アルゴダンザのものは、HPを見た限りでは、青いダイアが多かったように思う。


@故人を偲ぶよすがとして、遺骨から作ったダイアモンドのジュエリーを身につける。そうして心の安らぎを得る。遺族としてはやむにやまれぬ思いでこのジュエリーをアルゴダンザ社に作らせたのだろうが、果たしてこれが、愛する者の死を本当の意味で、全面的に受け入れることになるのだろうか。少なくとも私に言わせれば、少々クエスチョンマークがつく。

@死んだものを手元に置く、というのは、極言すれば、死人をそばに置くようなものだ。生身で置けないから、火葬した遺骨をダイアに変えたり、カプセルに入れたりして、死んだ家族を何時までも家に置いておく。そうやって家族は死によるショックを和らげ、死に対する葛藤を超えたつもりになっている。

@しかし、昔のように死んだ者を家の近くの寺の墓場に埋めるならまだしも、モノに転換して家の中においたり、ジュエリーとして身を飾ったりするのは、肉親の死と言うものを本当の意味で完全に受け入れられない証拠ではないだろうか。

@肉親の遺骸をいったん火葬しておいて、後でその死の衝撃に耐えられないのか、その遺骨の一部を宝石に変えてまで、自分たちのそばに置こうとする。気持ちはやまやまだが、そんなにしてまで死者と別れたくないのだろうか。

@彼らは、死に対する葛藤を彼らは完全に克服しないまま、死者を自分たちの手元に置いていっているのだ。家族がどんな形であれ肉親の死を受け入れる、ということは、時間をかけて死に対するやりきれない感情や葛藤を乗り越えていくことでもあるはずだ。

@愛する者の死を完全に受け入れるには、死者を完全に葬らなくてはならない。自分の手には届かないかたちで弔い、葬っていかなくてはならない。

@死者の遺骨を物に変えて、自分たちの手元に置くのは、死者に対して未だ執着しているということなのだ。それは、家族にとってはよいことでも、死者にとってはよくないことのように思えてならない。

@死者を葬るということは、死んだものを宇宙空間を含んだ自然の中に返す、ということを意味しているのではないか。大地を土台として生まれたものは、臨終を迎えたとき、必ず大地に返還するのが一番よいのではないか。あるいは海に撒いたり、宇宙空間に飛ばす。そうやって、死の真実を受け入れる心の準備をしていくのが本当の弔う心ではないだろうか。

@そしてそれが、死んでいった愛するものにとっての、最後のはなむけになるのではなかろうか。遺族はその後、死んでいった肉親の思い出を、胸の中にそっとしまうようになるのだ。そして時々思い出しては生前の姿や声を偲ぶ。それでいいではないか、と思う。

@私は何も、遺骨をダイアモンドなぞにするのはいかんと言っているわけではない。ただ、それでは決して遺族の死の真実を完全に受け入れられないのでは、といっているのだ。


@死者を物にして手元に置くよりは、自分たちの手のとどからないような、天然の場所に帰したほうが、死の真実を完全に受け入れることになり、それがかえって、死者のためにも、また遺族のためにも、よいことになるのでは、と言いたいのだ。死んだものは二度と帰ってこないという事実、幾ら物に変えて手元においても、それで肉親の死のショックと悲しみを和らげることは出来ても、それを本当の意味で受け入れることは出来ないと言う真実を真の意味で受け入れるには、死者との完全なる「決別」が如何しても要る。

@ダイアモンドなどにして手元へ置いておくのは、完全なる決別にならず、死者に何時までも執着することになるので、本当に死を受け入れると言う意味で、不完全だとしかいえない。それで肉親の死の悲しみを本当の意味で克服できるのだろうか?死んだものと別れるのはいやだ、という気持ちは切実なものがあるが、死んだ者は完全に天然の世界へ返してあげるのが、本当の死者に対する愛と思うのだが・・・。
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