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寄り道読書。 [雑文]

@四十路に入ってきょうで3年目に突入した。要するに、今年で43歳になった、ということである。(嗚呼、言ってしまった・・・!)

@また一つ年を越えたけれども、気持ちとしては何時何時までも若々しくありたい、と、誕生日が来るたびに思う。

@幻冬社新書「日本人の精神と資本主義の倫理」を読み始めた。おいおい!まだ「脳と仮想」を読破してないのによ。(←自分にツッコミ)

日本人の精神と資本主義の倫理 (幻冬舎新書 は 3-1)

日本人の精神と資本主義の倫理 (幻冬舎新書 は 3-1)

  • 作者: 波頭 亮, 茂木 健一郎
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2007/09
  • メディア: 新書

@これは『プロフェッショナル原論』などの著書がある経営コンサルタントの波頭 亮氏と、科学者というカテゴリーを超えて多方面で活躍している脳科学者・茂木健一郎氏の対談を新書としてまとめたものだが、前半で既に両氏が、日本という、ある意味“銀河系最悪の衆愚国家”へ、それぞれ厳しい苦言を呈している。

@特に政治から文化に至るまで、戦後日本の全てに染みついてしまった「大衆への迎合」、ぬきんでた才能や哲理をもつ人の足を引っ張り、低めの平均値に引き摺り下ろそうとする「一律低レヴェルへの平均化」に対する茂木氏の怒りが凄まじい。

@さて、本書の前半までを読んで、最初に感じたことごとをここに書く。

@個人が公共の為に施設を作って提供するとき、例えばサントリーがコンサートホールを赤坂に拵えた時「鳥井ホール」と名付けず「サントリーホール」と名付けたりなど、個人名をつけずに企業名をつけたりする要因は「宗教心の有無」にあると波頭氏は述べている。これは私自身も常々感じていることでもある。日本には本当の意味での「宗教心」が根付かなかった。なぜかと言うと、えらい古い時代から、宗教を「国家の道具」「政治の手段」として使ってきたからだったというのだ。要するに宗教を利用して、民衆を「国家の奴隷」としてきたのが日本という国の一つの“やらしい”側面だというわけだ。

@思うに何時の時代もこの国では、国民は国家の「ロボット」として、国の繁栄の為に働かされてきた。その「ロボット」を効率的に働かせる為には、信仰を民衆支配の道具として使うのが一番、と各時代の支配階級達は考えて、それぞれ巧妙な仕掛けを用いてそれを遂行してきた。

@江戸期は儒教を使って幕藩体制安定のために庶民を従わせ、幕藩体制が崩れた明治期から第二次大戦が終わるころまでは軍事力増強の為に神道を利用して国民を操り戦争へと向かわせた。

@そして戦後は戦後の経済的復興・更なる経済的発展の為に宗教的価値観・倫理観を完全に排除して、代わりに日本人お得意の「勤勉さ」を奨励し、経済的豊かさの充足へと駆り立てて、高度経済成長を成し遂げさせ、日本を世界有数の経済大国へと押し上げさせた。

@しかし、先に書いたように何時の頃も、私達国民は「御上が圧しつけ、あるいは奨励する何か」によって国に操られる「ロボット」であり続けた。そうして真実の意味での宗教的倫理観が身に着かないまま、今日まできてしまったのだ。

@特に戦後から平成に至るまで、私達は経済至上主義を必要以上に引きずってきたから、未だにものが豊かなことが幸せ、お金を沢山、自分の手許に持っていることが至上の幸せだと思いこんで、そこへ安住しきってしまっている。

@私達日本人がそこから少しでも抜け出すには如何すればいいのか。真っ先に考えられることは、日本人独り独りの中に今こそ確固たる精神的支柱を構築することだと思う。その為には如何すれば良いのか。

@少なくとも私が思うに、古くから長い年月をかけて東洋の地、特に古代印度を源流とする、“全ての生命の尊厳”を掲げる生命哲学的英知を内含した、仏教本来の法理、なかんずく『法華経』など大乗仏教の法理から見出すのも、一つの選択肢なのではないか。(あくまでですよ、あくまで!!)

@もちろん、イスラムもキリスト教も、ほかの古くからある信仰も、ものの道理に違わぬものである限り、懸命に信じてよい、と思う。


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