自分の踊り方でおどればいいんだよ。(2) [雑文]
@路線バスで三軒茶屋へ向かう時に見た看板に書かれていた、音楽集団「じゃがたら」の元リーダーで、今は亡き江戸アケミの言葉。
“やっぱ自分の踊り方でおどればいいんだよ”
@果たして、自分は「自分の躍りかた」で躍っているか?自らの信念を貫き通して、生きているのか。人の“真似”をして、生きてはいないだろうか。そもそも、自分の中に、信念らしき信念は、あるのだろうか。人に媚びては、いないだろうか?
@何時もこのことを自問自答する。信念が無ければ、それを持つしかない…さまざまな人と逢い、かつ、いろいろな経験をつみながら、自己の人生哲学を内面に築き上げていくだけだ。
@「藝術はあなたの中にある」と言っていたのは、現代藝術家の宮島達男であったか。彼は現代で切り捨てられがちな生と死の問題、他者と自分との有機的なつながりの問題などから眼をそらさずに、数々の優れた作品を世に発してきた。
@また彼は「藝術で世界は変わるか」という、サルトルの言い残した命題に挑戦している。あくまで私の個人的な見かたであるが、宮島氏は、藝術・文化こそ世界平和の「再構築」に貢献するものだとの信念を持っている人なのだ。江戸アケミのいう“自分の踊り方で躍っている”人のひとりなのだ。
@無論宮島と同じようなスタイルでは踊れないし、また自分はこういう者だ、と決めてかかると、自分で作った枠の中に自分を押し込め、それがために人生が窮屈になりそうである。
@とりあえずは、自分が何者であるかなど決めることなく、凪いだりあれたりする人生の海を、流れの一つになったツモリで、泳ぎきるやりかたをとって生きてみよう。
@・・・昨日に引き続き、きょうも空からは雨は降らない。昨日は仕事の後、私用で巣鴨に赴いていたが、梅雨の中日(なかび)だというのに、真夏のように太陽が情け容赦無く、かっ!と照りついて、露出した顔面や腕がチリチリと焼けるようである。無論夏本番ならこの程度では済むまい。
@巣鴨駅はただいま工事中。額面通りにとらえれば不便だが、考え様によってはいつもの巣鴨の風景が、雰囲気が変わって新鮮に見える。
@一昨日、朝日カルチャーセンターへ向かう道すがら、駅前の本屋で中央公論7月号を立ち読み。茂木健一郎の連載「新・森の生活」で、”人間の自由意志と因果的決定論は両立し得るか?”という難しいテーマに出くわす。
@人間の自由意志(Free will)と因果論的決定論との両立について、両立する、という説(両立説Comparibilism)と、そうでない非両立説(incompatibilism)との2つの考えかたがある、というが、今は世界が因果的に決まっているにも関わらず、人間はあたかも自由意志を持っているように感じている、という両立説のほうが支持されやすい。
@面白いのは非両立説には2つの説があり、ひとつはLibertarianism=人間は何をやっても自由だという説と、もうひとつはScepticism=自由には責任が伴うという説であるという。
@しかし、人間と言うものは所詮は、何かをしたいという、無意識から沸く欲望の衝動に突き動かされて、事をおこしてしまう生き物であり、(動物である以上、そうなりやすい)欲求が出て来てしまうこと自体は、自分の意志からではない、ということをThomas hobbes(1588-1679)が既に見抜いて語っているのだ、という。
@何かをしたい、という欲求に突き動かされて「、ある選択」をして事を起こすことは、それが結果的にみて、時に恐ろしいものになる可能性がある。今日の脳科学で取り上げられている“自由意志”とは「何かをやらない」という「拒否権の自由意志」でしかない…以上のことは、一昨日の朝カル講座「脳と心を考える~脳と古典」で、上述の茂木健一郎氏が講義していたことである。
@たとえば、衝動的欲求のママに「戦争始めます!」という選択をすれば、結果的に平和は破壊され、大量殺戮が正当化され、地上に未曽有の悲劇をもたらすことは眼に見えているはずだ。然し人間は、何かを得たい、欲しいをいう欲求のままに戦争や紛争、殺人という手段をシバシバ選びがちである。
@そういう無意識の欲求からくる、愚かな選択をさせないためには、如何すればいいのか。
@すくなくとも考えられることは、人の心の中に、生命とは尊いもの、かけがえのないもの、1度喪ったら2度と戻ってこないもの、という生命は尊極である、という概念を、丁度クイを地中深く打ちこむように、シッカリと人心の「地面」に打ちこみ、戦争など生命の尊厳を脅かす行為に繋がる選択をさせないようにすることを、文化・教育などの視点から、徹底的に行うことから始めなくてはならない、ということだ。
“やっぱ自分の踊り方でおどればいいんだよ”
@果たして、自分は「自分の躍りかた」で躍っているか?自らの信念を貫き通して、生きているのか。人の“真似”をして、生きてはいないだろうか。そもそも、自分の中に、信念らしき信念は、あるのだろうか。人に媚びては、いないだろうか?
@何時もこのことを自問自答する。信念が無ければ、それを持つしかない…さまざまな人と逢い、かつ、いろいろな経験をつみながら、自己の人生哲学を内面に築き上げていくだけだ。
@「藝術はあなたの中にある」と言っていたのは、現代藝術家の宮島達男であったか。彼は現代で切り捨てられがちな生と死の問題、他者と自分との有機的なつながりの問題などから眼をそらさずに、数々の優れた作品を世に発してきた。
@また彼は「藝術で世界は変わるか」という、サルトルの言い残した命題に挑戦している。あくまで私の個人的な見かたであるが、宮島氏は、藝術・文化こそ世界平和の「再構築」に貢献するものだとの信念を持っている人なのだ。江戸アケミのいう“自分の踊り方で躍っている”人のひとりなのだ。
@無論宮島と同じようなスタイルでは踊れないし、また自分はこういう者だ、と決めてかかると、自分で作った枠の中に自分を押し込め、それがために人生が窮屈になりそうである。
@とりあえずは、自分が何者であるかなど決めることなく、凪いだりあれたりする人生の海を、流れの一つになったツモリで、泳ぎきるやりかたをとって生きてみよう。
@・・・昨日に引き続き、きょうも空からは雨は降らない。昨日は仕事の後、私用で巣鴨に赴いていたが、梅雨の中日(なかび)だというのに、真夏のように太陽が情け容赦無く、かっ!と照りついて、露出した顔面や腕がチリチリと焼けるようである。無論夏本番ならこの程度では済むまい。
@巣鴨駅はただいま工事中。額面通りにとらえれば不便だが、考え様によってはいつもの巣鴨の風景が、雰囲気が変わって新鮮に見える。
@一昨日、朝日カルチャーセンターへ向かう道すがら、駅前の本屋で中央公論7月号を立ち読み。茂木健一郎の連載「新・森の生活」で、”人間の自由意志と因果的決定論は両立し得るか?”という難しいテーマに出くわす。
@人間の自由意志(Free will)と因果論的決定論との両立について、両立する、という説(両立説Comparibilism)と、そうでない非両立説(incompatibilism)との2つの考えかたがある、というが、今は世界が因果的に決まっているにも関わらず、人間はあたかも自由意志を持っているように感じている、という両立説のほうが支持されやすい。
@面白いのは非両立説には2つの説があり、ひとつはLibertarianism=人間は何をやっても自由だという説と、もうひとつはScepticism=自由には責任が伴うという説であるという。
@しかし、人間と言うものは所詮は、何かをしたいという、無意識から沸く欲望の衝動に突き動かされて、事をおこしてしまう生き物であり、(動物である以上、そうなりやすい)欲求が出て来てしまうこと自体は、自分の意志からではない、ということをThomas hobbes(1588-1679)が既に見抜いて語っているのだ、という。
@何かをしたい、という欲求に突き動かされて「、ある選択」をして事を起こすことは、それが結果的にみて、時に恐ろしいものになる可能性がある。今日の脳科学で取り上げられている“自由意志”とは「何かをやらない」という「拒否権の自由意志」でしかない…以上のことは、一昨日の朝カル講座「脳と心を考える~脳と古典」で、上述の茂木健一郎氏が講義していたことである。
@たとえば、衝動的欲求のママに「戦争始めます!」という選択をすれば、結果的に平和は破壊され、大量殺戮が正当化され、地上に未曽有の悲劇をもたらすことは眼に見えているはずだ。然し人間は、何かを得たい、欲しいをいう欲求のままに戦争や紛争、殺人という手段をシバシバ選びがちである。
@そういう無意識の欲求からくる、愚かな選択をさせないためには、如何すればいいのか。
@すくなくとも考えられることは、人の心の中に、生命とは尊いもの、かけがえのないもの、1度喪ったら2度と戻ってこないもの、という生命は尊極である、という概念を、丁度クイを地中深く打ちこむように、シッカリと人心の「地面」に打ちこみ、戦争など生命の尊厳を脅かす行為に繋がる選択をさせないようにすることを、文化・教育などの視点から、徹底的に行うことから始めなくてはならない、ということだ。
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