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三度目の「3.11」に思うこと…。つぶやきの代わりに [つぶやき(Twitter代用)]

*あの未曾有の震災から丸3年。少しずつではあるが、復興が進んでいっている地域もあるにはあるが、進み具合が遅い地域、とりわけ福島の海沿い地域ではあの原発事故の、あまりに重い後遺症の為に復興は進まず、むしろその逆の荒廃へと向かっているように思える。避難地域の指定がまだ解除されないところもある。

*津波などでの死、所謂震災関連死を合わせると25000人を優に超える死者・行方不明者。大自然が巻き起こす脅威によって、斯くも多くの尊い人命が奪われていったことを思うに、残された人々の耐え難い悲しみと苦しさに、こちらも心苦しくなるばかりだ。

*とりわけ、最愛の子供を亡くされた親御さんたちの無念と苦しさ・・・!

*春3月、輝かしい明日、楽しい日々があったはずの多くの命が、あの巨大な津波と共に消えていったのだから。

*残された家族はその悲しみに耐えて、これからを生き抜かねばならなくなったのだ。

*悲嘆と向き合いながら、やっと迎えた3年目の春。…しかし亡くなった我が子が、生前の元気な姿で自分たちの元に戻ってくることは、もう永久にない。

*だが・・・。生命…その本質は、永遠であると…少なくとも私は、思う。

*仮令、津波で我が子がいなくなっても、親と子の命は、永遠という名の「紐帯=絆」でつながれている。

*生命は死と生とを繰り返し、永遠に続く、と教わったことがある。

*それがもし、詩的ではあれ真実なら、親より先に亡くなった我が子の死は、彼が再び新しい生命として生まれてくるための準備期間ではないだろうか。死んでいるのは一時のことで、時が来ればまたこの地球のどこかで新たな姿で生まれてくるに違いない。

*そうであるなら、親が子供を亡くした悲しみを受け止めつつも生涯を全うし、愈々旅立つ日が来た時、一度は死の状態になり、時が来たら再び新しい生命として、また運が良ければ同じ親子同士として、この地上に生まれ合わせることができるかもしれない。

*子供の死は確かに耐え難いほどに悲しい。大切な未来を託す存在が、親の世代よりも先にこの世から去ってしまうのだから。だが、死は決して悲しいばかりではない。寧ろ新しい姿、新しい生命として再びこの地上に生まれてくる為に必要な事なのだから。

*子供ばかりではない、親、兄弟、知り合い、友人…その他掛け替えのない存在との、永遠の別れは極めてつらい。しかし、彼等も何時かは新しい生命、姿としてこの地上にまた生まれてくるはずだ…と思うことができれば、深い悲しみも少しは和らぐのではなかろうか…そんなことをつらつら、思うようになった震災3年目の春の週末。
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