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『偶有性の自然誌』(Natural history of Contingency)① [雑学小論文]

@昨日(7/14)、東京は銀座・アップルストアのインターネットコーナーで、脳科学者・茂木健一郎博士の「クオリア日記」を開いて、それに収録されている音声ファイルを聞いていた。(自宅のPCの、音声ファイルソフトがイカレている為)

@なんでも、彼のこれまでの科学者人生を賭けた、非常に重要なミッションについて、その概念を学生たちに語ったものらしい。この音声ファイルは1時限目と2時限目に分かれて収録されており、私が聞いたのは1時限目のほうであった。

@タイトルは『偶有性の自然誌』。7月4日に、東京大学駒場キャンパスにて行われた、認知科学における集中講義の様子を博士自らがファイリングしたものである。

@この講演で彼が言いたかったことは3つ。①偶有性(contingency)という概念について、真面目に考えるとこれが難しい問題だ、ということ②その偶有性についての明確な理論化、③理論化した偶有性をダーウィンのように『自然誌』として世界に問いたい、である。さらに博士は、従来からライフワークとして続けている「クオリア」の問題探究と、この偶有性とに補助線をひいて、結び付けるのだ、と言っていた。

@偶有性とは、あらかじめ人の頭の中で予測が出来る事と、全く予測外(想定外)の事がだいたい半々(50:50)の確率で起こる、この世界を満たしている性質をいう。つまりは可能であるが必然ではない/必然ではないが不可能ではない、というのを偶有性という。これについては「なにも難しい概念ではなく、たとえば『運が悪い/運がいい』というのはこの偶有性によるもの」だという意見があるのだが、博士は、いざ偶有性について本当に真正面から考えると、これが難しい、と述べている。

@博士によるとこの「偶有性」概念は、西欧ではともかく日本では一般概念として浸透していない、ということであった。要するに、この世界は何でも起こり得るし、何が起こるか予想できないものだ、という概念が「偶有性」なのである。たとえば、生物の行動は予測できない(それは相手に自分の動きを予測させないためだ)とか、何時大震災が起こるか判らない、というのは、実は偶有性によって成り立っているのであるという。

@講演の始めで、博士は日常というのは、偶有性に満ちあふれている、と言ったあとでこう述べた、そもそも、日常生活が行われているということは、如何言う事か。一つの決まった文脈(context)だけでは説明がつかない、と。

@脳の意識の問題についても同じで、意識は、それが、どのようなプロセスを経て生まれるのか、これもまた一つの決まった考えだけでは説明不可能だ。そもそも、何故人間は物事を認知するための高度なプロセスを持つにいたったのか、という説明が今はない、と。

@これらの問題について、博士は、ダーウィンが『種の起源』で明かしたところのレヴェルでさえ今の脳科学・認知科学は達していない、と語っている。…たしかに、言われて見れば、感覚(五感・六感)の質=クオリアの発生起源にしたとて、まだまだ今の脳科学や認知科学の現場のレヴェルでは解き明かされてはいないらしいもんね。

@さらに博士は、彼自身の見解として、認知科学の問題をタンに「脳」だけの問題として扱うのは、間違っているとは言わなくても、おかしいと思う、とも語った。…そう言われて見れば、“認知”の問題は、彼のいうとおり、本当は自分の「脳」だけでなく、周りの自然(環境)とも関わってくる問題なので、それを単なる「脳」だけの問題として扱うのは、「人間」と「環境」との関係性を考慮にいれたら、不自然なのではないか、認知問題もこれからは「脳」だけでなく、実際の世界と結びつけてトータルに考える時代にきているのだな、と彼の音声を聞きながら思った。

@またさらに、偶有性は、人と自然との関係性の中に存在する、とも述べている。これは実際の世界が如何言う風になっているかを考えれば、おぼろげながらわかってくることだ。つまり「人間」と「環境」とは、別々のようでいて、実は互いに関係しあっている。(余談だが大乗仏教における世界観の概念の中に「依正不二」(えしょうふに、と読む)とあるが、これは人間(正報)と環境(依報)は切っても切れない(=依報と正報は二つにして一つ)という関係性にある事を示しているとされる)

@茂木博士は、講演の後半では、ガスのようなカオス(混沌)とクリスタルのようなオーダー(秩序)の中間に偶有性が含まれているという説明をした。秩序と混沌の間に偶有性があるということは、世界は、自然は、そのような構造になっているとも言える、ということなのか。

@話は確率論的な論議まで及ぶ。“自然”を細かい、量子力学的なレヴェルまで分解すると、自然→原子[電子(中間子)陽子]→素粒子、になる。それには確率論的なもの(相互作用)が含まれているという。

@それと前後して、博士は、先に述べた意識の問題について、その解明については、余程の大きなブレイクスルーがないと解けない。この問題を解く為のヒントとして、確率論の中に〈事実〉と〈反事実〉が一つの数学的スキーム(=相互作用)の中に入っているという考えかたがある、と述べていた。

@このことは、何も茂木氏だけではなく、すでに数人の人が考えていることだという。

@さらにそれと関連付けて、博士は、人の持つ「感情」の中にその確率論的な成分が含まれている、という話をした。それは「後悔」という感情で、これは、事実と反事実がそろっていないと生まれないんだそうだ。そこで彼は、ある実験の例を示した。

@数人の人達に二通りのゲームうち、どれか一つを選んでもらい、あとでその人達が選んだゲームの結果を示すと同時に選ばなかったゲームの結果も示して、その時に現われた被験者の感情がどうなのかを見る、という実験だ。

@もし、選んだゲームの結果が選ばなかったそれよりも好かったならば、被験者たちに「やったね!このゲームを選んでよかったよ!やっぱ、選んだもん勝ちだね」という会心の感情が浮かぶし、逆に選ばなかったゲームの結果が選んだそれより好かったら、「あの時このゲームを選んでいたらなぁ…あ~あ損しちゃったよぉ~」という後悔の感情が浮かぶという。

@人間の感情、特に後悔の念は、事実と反事実といった相互作用的なものがそろって生まれることの証明に、この実験のキモがあったというわけだ。

@また、こういう感情はある文脈に依存して生まれるという。それは人間の社会的認知の一つであるという。

@人間には、眉間にあたるところに、文脈依存の認知を司る部位(orbit frontal)があるという。これが壊れた人は後悔の念がおこらないらしい。

@…以上のように、こうした意識や認知にまつわる諸問題や、自然や人間の関係性をも含めた、世界を満たしている偶有性の問題について、始めにこの記事で書いたように、長い時間をかけて理論化し、それをダーウィンの如く『自然誌』として、世に問うのだとの見解を示した。最後にヨーコ・オノ・レノンのハプニング・アートの話をして、1時限目は終了した。

@人生と世界は別々に出来ず、予測できることもある一方で、何時、何が起こるか判らない、という世の実相を、この茂木博士をはじめとする、世界の優れた頭脳は「偶有性」(contingency)という言葉で表わした。第2時限目の音声ファイルでは、この偶有性の問題とクオリアのそれとを結びつけるという構想について語るのだが、それは近いうちに聞くとしよう。

@ともかく、私たちは、この偶有性なるものに満たされた宇宙の中の、一個の惑星の上にある、ちっぽけなこの一角で、それぞれの日常を懸命に生きているのだから。


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風待人

おはようございます!!

まだ音声ファイルを聴いていませんでしたので
銀鏡反応さんのお書きになったものを読んで
なるほど~!と思っています。

ありがとうございました。

なんとなくスッキリしないお天気ですが・・・

梅雨明けが待ちどおしいですね~!!
by 風待人 (2007-07-22 08:22) 

長島

偶有性は聞きなれない言葉ですが、非常に面白い、重要な言葉だと思います。
私も以前から脳だけではこの世は成り立たないと感じていました。
この問題についてもっと勉強させて貰いたいので宜しくお願いします。
by 長島 (2007-07-25 05:04) 

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