SSブログ

それでは未来は生き抜けないぞ。 [雑文]

@本日を含め、今年もあと3日となった。


@午後、TVの再放送番組を見てると、イマドキの若者言葉の話題が出て来た。

@・素晴らしい→ヤバイ、・私それ好きよ→私、それ好き「かも」 ・「一応」学生です、・私、○○じゃないですかー…、・すごくかっこいい→「超」かっけー、・それ○○「みたいな」…。何とも表現が曖昧的であり、幼稚である。


@番組に、雑誌「ホットドッグプレス」元編集長で評論家の山田五郎氏が出て来て、それらの言葉について解説。それによると、(こういう言葉を使う世代は)少子化で親に構われて生きてきて、対立を恐れる(ような精神構造になっている)。…周りの空気を読みつつ、探り探り相手とコミュニケーションをとる…。

@しかし、少なくとも私が思うに、周りの空気をのべつに気にし、そういう曖昧言葉を使ってしかコミュニケーションをとれない人間は、おそらく、これから激しさを増す世の嵐に翻弄され、つぶされてしまうのではないか。


@いいことは「いい」、悪いことは「悪い」とはっきり言えばよい。何故曖昧にするのか。対立や喧嘩があるのは人間社会では当たり前だから、そんな「対立」を本来ならば、必要以上に恐れることはないのだ。何故、必要以上に対立や喧嘩を恐れるのか。もしかしたら、相手次第では、殺されるかもしれない…とまさか、思っているんじゃァ、ないだろうねぇ。(そういうことはないか)

@「超」とか「ヤバイ」とか、こういう言葉は本来、「超」なら「ものすごい」「人知を超えた」とか、「ヤバイ」なら「危険」「あぶない」という意味で使われた。それが「ヤバイ」は「素晴らしい」という肯定的な意味に使われるようになった。

@時代・流行の移り変わりにつれて、若者の使う口語も変質し行くのは歴史の常であるが、曖昧言葉を使って、探りを入れながら、コミュニケーションを取ろうとする姿からは、この乱世に立ち向かおうとか、対立を恐れず堂々と相手とやりあっていこうとかいう、力強き交流のパワーは感じられない。無論、そんな“へタレ”た若者ばかりではないだろうし、相手と堂々とやりあう度量のある男女は、若い世代の中にもごまんといる。

@ましてや、外国人とやりあうには、「みたいな」「かも」のような翻訳不能な曖昧語(ぼかし言葉)を使ってはいけないのだ。あくまでストレートに、よいものはよい、悪いのは悪い、と明確に言い、わたしはこういう者です、私はこれが好きです、というふうに、はっきりと意思を伝えるために、曖昧さを排することが大切だ。


@友達づきあいでも何でも、曖昧や空気読み過ぎ、腹の探り合いばかりやって、如何して真の友情が育まれるだろうか。


@曖昧語ですますコミュニケーションばかりとっていては、厳しくなり行く未来は、生き抜けないぞ。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。