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2010-11-14 [雑文]

@また一週間ぶりのブログ更新だ。この一週間、結構“濃い~い”ことが世間であったなぁ。

@半世紀もの間、我々の世代を含めて(私は1960年代生まれ)、みんなを笑わせてくれたあのクレイジーキャッツのメンバー・谷啓さんのお別れの会も話題になったし、また既成メディアが中心になって大いに騒いだ「尖閣ヴィデオ流出事件」(→問題のヴィデオは海保大学校で自由に閲覧可能だった。ということは、この映像は国家機密にするべきたぐいのものではなかったということの現われだろう。寧ろ問題なのは警視庁からの機密情報漏洩事件。本当は、こちらのほうをメディアは大々的に取り上げるべきだったのではないのか、という主にウェブ側からの意見が多数あった)も連日TVニュース番組で放映されてたし、また例のAPEC(アジア太平洋経済協力会議)が横浜で開かれる為に警備が強固になりすぎて、折角の横浜観光もやりにくくなっている・・とか言う話題もあった。

@…てなわけで、今週もいろいろ濃かったなぁ。こんなに世間で濃い出来事が起こるようになったのは何年ぶりだろ。2001年にNYで例の無差別爆破テロが起こって以来なのじゃないかな。世界はますます激動の波浪に翻弄されつつある、と言う事なのかも。

@枕話はさて擱いて…先週土曜に私が渋谷へ訪れたときに、駅前のバスターミナルのある側でホームレス自立支援雑誌「ビッグイシュー」(http://www.bigissue.jp)を売っていたお兄さんを見つけて、¥300払って同誌154号を買った。其の侭通り過ぎようと思ったが、瞬間、声をかけてあげようと思い立ち、お兄さんのほうへと戻って、声をかけてあげた。

 「頑張って!」
 「あ、ありがとう…!」 お兄さんは一瞬びっくりしつつ、嬉しそうな顔をされた。

@表紙は何とあのボン・ジョヴィ(スペシャルインタヴュー記事)。で、メインの特集は「秋・不思議なきのこ」。「ビッグイシュースペシャル」はシンガーソングライター・中村中(あたる)。

@…実は買ってから一週間、なかなかまともに読める時間がなかったが、この週末、特集を読んでみたら、きのこ=菌類がこの地球の地面に生える植物のみならず、全ての生き物を生かしている、つまり菌類のお陰で我々が生かされている、という話や、その他きのこにまつわる驚くべきエピソードが紹介されていた。ので、興味ある方は、是非。

@既成メディアがなかなか紹介しない事も、この『ビッグイシュー』には丁寧に紹介されている。また我々が同誌の読者として販売員の方に支払った300円のうち、160円がその方々の(一人当たりの)収入になる(ビッグイシュー日本版の場合)。つまり、世界中に数多く居る路上生活者の自立を、文字通り我々は支えている事になるのだ。

@しかし、世に数多いる路上者のうち、「ビッグイシュー」の販売者として参加している人々は、日本にかぎって言えばまだまだ少数派と思われる(諸外国はもっと多いのかな)。けれども、若くしてホームレスになる人が増える傾向にあるこれからの時代、何時も好い加減な国の福祉政策をあてにせず、独り立ちするべく「ビッグイシュー」の販売者になるのを選ぶ人たちが、日本でも増えていくのに違いない。

@さて、「ビッグイシュー」154号の連載コラムで、自分がこれは!と思ったものを此処で紹介してみる。弱冠18歳の青年作家・東田直樹による「自閉症の僕が生きていく風景」である。

まずは本文からの抜粋引用を読んでいただきたい。(引用①始め)

普通になれないことが、悲しいことばかりではないと僕が言いたいのは、自閉症が治らない障害だからではありません。僕にとって自閉症とは、僕自身を表す言葉ではないからです。今の僕は、日本人であり、高校3年生であり、作家である18歳の男性です。運動音痴で不器用ですが、いつも頭の中でいろいろな事を空想しています。そんな僕の個性の一つが自閉症であって、自閉症である事が僕のすべてではないのです。 けれども一部の人は、自閉症であることで、僕のすべてがわかったように判断してしまいます。それとは逆に、自閉症であるがために、僕のすべてが理解できないという人もいます。それが、僕を誰だかわからない人間にしていることに、みんなは気づいていません。僕という人間を先入観なしにみてください。そこからすべては始まるのではないでしょうか。(以下略)
(引用①終わり)

@彼のような「何時も頭の中で色々な事を空想する」想像力=創造力に満ち満ちた、極めて感性豊かな人間を、いわゆる『自閉症』だからといって、それで「あぁ、あいつ、自閉症なんだ、ふぅ~ん」と、分かった気になって一種の「思考停止」になってしまったり、または「あいつはわからん!」と理解不能に陥ったり、といった我々一般人がついつい陥りがちな悪癖によって、彼(のような人々)が“いったい何者か分からなくなっていること”に、皆が“気がつかなくなっている”と、東田は鋭く指摘している。

@そして「先入観」という「心の鎖」を外して自分をありのままに見てくれ、そこから僕(のような人)への本当の理解は始まる筈だ、と主張する。その主張の仕方が実に素直で、読むものの心に、すっ…!と入っていくやわらかさを持っていて、非常に好感が持てる。

@世間で長い間、積み重ねられてきた、彼のような人々に対する「自閉症への先入観」。それは思うに、昔からある障害者への偏見に加え、既成メディアによってその辺の部分を増幅して刷り込んだ結果によるものなのかもしれない。兎に角「自閉症と言うのは何々」といった偏見を無批判に受け入れ、鵜呑みにしてきた為に、我々の無意識に潜在的に染み付いたそんな「先入観」は、東田のような人々を本当に理解する上で、大変な「障害」となる。

@我々はこの障害を、幾ら時間が掛かっても、外さなくてはなるまい。自分たちとは異質な存在をありのままに受け入れる為にも。

@「自閉症の僕が生きていく風景」からもう一つ、文章を抜粋引用する(引用②始め)

幸せは、自分の心が決めるものです。いくら周りから見て、その人がかわいそうであっても気の毒そうに見えても、本人が幸せならそれでいいのだと思います。しかし、どんなに幸せでも、それが永遠に続かないのも事実です。人生は、未来に向かって動いています。そのことを僕はしっかりと認識しなければなりません。僕には、明日が想像できません。記憶が線でつながらず、点のような感覚だからです。明日という日は、今日の続きではないのです。(中略)僕の明日は、新しい自分がそこにいるだけです。では、新しい自分とは、どのようなものでしょう。
(引用②終わり)

@引用②の冒頭「幸せは自分の心が決める」とは、相田みつをの書にもあるので、ある程度世間に知られているはずの言葉である。しかし我々はなかなか、日々を生きている中での実感として、この言葉を捉えきれていないのではないだろうか。よく我々は、例えば路上を行くハンディキャップ持ちの人を見るたびに、「嗚呼かわいそうだ、気の毒だなぁ」とつい、思ってしまう。でも本人にとっては今、こうして障害とともに生きる毎日であっても、本人にとっては何にも代え難い大きな幸福を、日々感じて生きているかもしれない。

@そしてそのような人は東田の言うように「幸せを自分の心で決めている」人なのである。そんな人に向かって「大変なんじゃないですか?」などと言うものなら、破顔一笑にふされるかもしれない、「いやいや~、私はこれで充分幸せなんですよ、今のところは。ハハハ…」とね。

@また、人生というのは禍福が縄のように糾(あざな)えて現われるものだという観念が以前からある。これ以上ないと思える幸せがある程度続くかと思えば、次の瞬間にはどん底の不幸なる奈落に落ちる。このように、人生には禍福が縄の目のように繰り返し現われる。そしてそのようにして「人生は、未来に向かって動いている」のである。

@東田は文中で、「人生は禍福を繰り返しつつ、未来に向かって動くもの」であることを「しっかり認識しなくてはならない」と言っている。これは、流動的な禍福を繰り返す、己の人生というものに真正面から向き合って「日々新たなり」の気概で見極めて、未来を“自ら日々新たに生まれ変わりながら”生きていこうとの決意を含んでいるように私には思えた。

@不確実性と確実性、そして、禍福を変わり万古に繰り返しつつ、時間の流れとともに未来へと向かって動いていく我が人生。誰もがそれぞれの形で、そのように生きていかなくてはならないように、出来ている。東田直樹は、この人生の「セオリー」を彼なりに真っ直ぐに受け入れ、自らをいわゆる「偶有性」の中へ投げ込んで生きようとしている。

@それにしても、彼の書く文章は、本当に澄み切っていて、しかも手触りがやわらかい。やわらかい中にも、彼のしっかりとした主張が、押し付けがましくない形で示されている。こういう文章を書ける、瑞々しい感性に満ちた若者を陰で良いから、応援したいと思う。
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