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脳ブームと日本人の思想観・宗教観 [雑学小論文]

〇世の中には、まだまだ宗教団体が政治に関わることに違和感をもつ向きが多そうだ。しかし、かの印度独立の父、マハトマ・ガンディーも述べているように「宗教無き政治は国家の首を吊るロープ」でしかないのである。

〇現に欧州ではキリスト教者が政党を作って政治に関わっている。それに対して現地では誰も文句を言ってはいない。日本も少しはそれに倣い、宗教者(カルトと呼ばれる呪術的教義を掲げるもの、あるいは宗教の衣を着たテロ集団は論外)がもっと政治に関わる状況になったら、世の中はもう少し今よりはマシになるのではないか、と思う。

〇ところで、昨今はやりの「脳ブーム」とやら、少しは落ちつきを見せたのだろうか?

〇「脳を鍛える」「脳が活性化する」という触れこみで発刊される(「ドリル」やら「塗り絵」やら、はては「写経」まで出ている!)「鍛脳本」は素人目から見ても、発刊のペースがなかなか落ちる気配がない。むしろ多岐にわたっていろいろなタイプの鍛脳本が出て来るありさまである。

〇しかし、どれほどそれらの鍛脳本で“脳を鍛えたつもり”(そりゃ、少しは活性化するだろうよ)になったとて、それが人生をよりよく生きることに必ずしもつながらないのでは、という思いが如何しても抜けない。人生をよりよく生きるには、まずは行動をおこして人に会い、本物の芸術、思想に触れ、自然に出来る限り触れ、生の体験を積むことだ。

〇それが、本来的な意味での“脳の鍛え”となる。と同時に、おのれの人生をそのぶん、よりよい方向へ生きるということになるのだ。これは脳の研究の第一人者もお墨付きを与えていることだ。

〇それにしても、脳ブームが一向に衰えを見せないのは何故か?「ボケたくない」、「賢くなりたい」という、我々大多数の日本人の欲求が脳ブームを衰えさせるどころか、ますます過熱させているからなのかもしれない。

〇そしてそのもともとの深層を観て見ると、やはり、「きまった宗教を持たない=確固たる人生哲学を持たない」というところに行きつく。宗教を信ずるということは、人生哲学を持つことに通ずることなのだ。

〇個人個人がそれぞれ、何らかの宗教を信仰していたら、こんなに脳ブームが熱くなりすぎることはないし、何よりブームそのものも起こらなかったに違いない。

〇よく、日本人ほど宗教に対して「寛容」な民族はないと言われるが、一面から見れば、その「寛容」さは、本当の意味での「寛容」ではなく、実は宗教に対して「無頓着」だというだけなのである。多神教国家といわれればそれまでだが、それにしても確固たるものが感じられない。大多数の日本人の、宗教に対する感覚は真の「寛容」とは違うような気がしてならない。

〇実は数多の宗教には、各々比較して教義の高い、低い、深い、浅いという差があり、教義のレヴェルが低い(たとえば“おまじない”程度の)、浅い宗教ほど原始的であるという。これは、宗教というものの本質を少し研究すれば分かることなのだ。

〇日本人はご利益(現世利益)さえあると思えば、たとえば蛇すら拝んでしまう。マァ原始宗教しかなかった大昔なら、それで十分ご利益があったかもしれないが、今やGoogle全盛、インターネットの網の目が世界中に張り巡らされている現代、何時までも蛇を拝んでいてはどうかと思う。いや、「信教・思想の自由」は憲法が制定する前から厳然と存在するから、蛇を拝もうと狐を拝もうと、それはそれで構わないのだが…。

〇しかし、それで本当の意味での「幸福」をゲットできるかといえば、別問題のようではある。ちょっとした小さな幸福ならゲットできるだろうが、この世から殺人や戦争がなくなる、という「平和」と関係ある大きな「幸福」は蛇や狐を拝んだ程度では実現できまい。

〇やはり、現代には現代人の抱えている様々な苦悩、不幸を克服させ、大きな幸福をゲットさせ、引いては世界平和を実現させるだけの力のある宗教が求められているのである。いくら信教の自由とはいえ、蛇や狐を拝んだ所で本質的な苦悩や不幸の克服にはつながらない。

〇その力ある宗教は必ずしも新興宗教とは限らない。古くからある宗教の中に、ひょっとしたらそれはあるのではないか。


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